昔の檜原村物語

 
    太古の檜原村、大昔の檜原村、少しばかりの昔の檜原村 にタイムスリップをしてみませんか。
 
ご案内役: 檜原村出身 岡部駒橘
 
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   南谷のむかしと今  ― 特に峠の交通路を中心として ―
 
今 … 昭和三十九年執筆 であることを念頭においてお読みください。
 
 

  はじめに

檜原村を空から眺めると、どんな姿が見られるであろうか。三頭山を水源とする南秋川と風張峠を水源とする北秋川が、それぞれ都道とつづら折りとなり、清流と道路があざないながら本宿で合流し秋川となり、檜原街道の北側を五日市町(後に、あきる野市に合併)に向かっている事と思われます。本宿の橘橋は檜原の唯一の玄関に当たり、交易と文化の入口になっていそうであります。

「文化は道路から」と言われた時代からみますと、現代は交通、マス・コミの発達が著しく、あらゆる地域でその恩恵を受けています。しかし過去の交通路の変遷と、その付随する事柄を振り返って見る事も、また益なしとは言えないと思います。

目で見る西多摩の100年

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↑ 岡部氏は
編者の一人です。

 
表題の通り、檜原村特に南谷の交通路の変遷を中心とした昔と今をさぐってみたいと思います。

 
 

  口留の番所のあった頃

江戸時代の元和九年(1623)檜原谷の人口の押さえとして口留の番所は、現在の檜原小学校の西隣に設置されたと伝えられます。

位置として誠に急所に当たっています。しかし檜原本宿から西に多く点在する集落の昔は、地形的に見て他町村とどの様な交流があったのでしょうか。…
 

 
↑ 岡部駒橘氏は監修者の一人です。


江戸時代の檜原村は江戸幕府の直轄地(天領)となり、およそ二百六十年間相継ぐ代官の支配を受ける事になりました。そのことは幕府の政策が徹底して行われたとも言えると思います。当時の村は二十三組に分かれていて、いわゆる五人組の組織も作られました。

この制度としきたりは非常に便利であったため、江戸時代後も残りました。総ての事は連帯責任であり冠婚葬祭から宗旨、火災、風教、警察、裁判、土地の売買、借金、旅行に到るまで組内や村役人の承認を得なければなりませんでした。明治維新後、制度の改廃があっても、連帯的な責任や団結はくずれる事が無く、制度はそのまま利用されました。別の見方をすれば個人の自由とか意見が充分に働かない雰囲気が、強く残って来ていたとも言えると思います。

檜原二十三区は明治九年に十三字に区分されましたが、地形的な環境と文化の流入の不便等から、各組とも独立的であり、他地区との提繋が無く、かえって自分達の組の団結を強める傾向でした。加えて経済生活は自給自足であり、生活の合理化とか産業育成の気運が育つ素地が非常に少なかった事と推察されます。

江戸時代の教えに次の様な文があります。

百姓は衣類の儀、布木綿より外は帯、表裏にも仕間敷事。朝起きを致し朝草を刈り、昼は田畑耕作にかかり、晩には縄をない、俵をあみ、何にてもそれぞれの仕事油断無く仕可き事

この教えは大百姓と言われた家ほど、後々まで守り続けました。何故なら農業を主とし、副業としての養蚕、製炭を、悪条件の中で営んで生活を堅持するには、最も良い掟であった事と思われます。

 
 

  もの日

冠婚葬祭以外は米、魚などの食べ物はめったに口にしなかったので、「もの日」などは非常に待たれる行事であったろうと想像されます。

ちなみに上川乗、人里で催した行事をあげてみましょう。既に無くなった行事や、現在でも残っているものもありますが、当時の一年間の様子を知るために一般的に行われている行事も合わせて載せてみました。

行事
 名
 時 期 場 所  備    考
お正月 一月一日 家庭 明治末まで一月遅れの正月をやっていた。三が日は年男が朝の行事を行って女の人はゆっくり休んだ。
お松焼き 一月四日 和田組 ドンドン焼きの行事に似ている。組の門松を集めて焼く。昔は一月十四日に行っていた。
七草がゆ 一月七日 家 庭   
お供えわり 一月
十一日
 庭 鏡開きの事
小正月 一月
十五日
同 上 まゆ玉(だんご)を作り、養蚕の豊作を祈る。ふしの木で農具を作って大神宮様にまつる。
山の神 一月
十七日
 組 お日まちを組中でやる。今は一月五日ごろやる組もある。この日は山仕事を半日位で休んだ。
恵比須講 一月
二十日
家 庭 恵比須大黒をまつる。家中のさいふを供えて、この一年でいっぱいになる様にねがった。
あたご様のお祭り 一月
二十四日
和田組 火伏せの神、子供にみかん、菓子をくばる。この祭りに関する伝説も伝えられている。
節 分 二月四日 家 庭 やっかがし(いわしの頭)を柱にさした。その時「しし、むじなの口やき申す」と唱えて害虫除けとした。
だんご日待 二月  日  組 初午の日に若い男女が米を持ち寄り、だんごを作って祝った。
春祭り 三月五日 部落 各部落によって日がちがう。祭りの旗をたてる。 雛節句と合わせて行った。二の午としてお日待をした。
お彼岸 三月二十一日ごろ 家 庭 春分の日、仏先祖の供養をする。
雹祭り 四月四日ごろ  組 榛名講(群馬県)をした。子供たちは茶碗、箸を持っておかゆをたべに集まった。米は各家庭から出し合った。
お節句 五月五日 家 庭 子供の日、子供の節句としてかしわもちを作った。 ふき流しを立てた。農具を洗って進ぜた。
掃き立て 六月〜
八月
 組 養蚕の仕事が始まる前、組の許しを得て、若者がまえだまを作って祝った。
あげ日待 六月〜
八月
家 庭 蚕が上簇してからお日待をした。(掃きたてとも年に三回位やった)小麦餅、まんじゅうを作って仏様に進ぜた。
はげんそう 七月四日 同 上 この日はやぶに入ると頭がはげると言われた。
お盆様 七月
十五日
同 上 らぼんえ、浅間峠にある浅間神社にお参りに大勢登った。あつけの神様と言われた。
大山講 八月  日  組 組の代表が大山(神奈川県)まで行ってきて、組でお祭りをする。代参する人は年々交代でいく。他の講も同じ。
秋祭り 九月
十五日
部 落 祭りの旗をたてる。獅子舞いをする。
十五夜 九月  日 家 庭 ご馳走を月に供える。子供が各家庭にご馳走をもらいに歩いた。
お彼岸 九月二十三日ごろ 同 上 秋分の日。仏様の供養をする。
十三夜 十月  日 同 上 十五夜と同じ事。
恵比須講 十月
二十日
同 上 恵比須大黒を祭る。
お節句 十月
二十九日
同 上 しまいくんちと言われて餅をついて祝う。農具を洗って供える。
天長節 十一月
三日
家 庭 文化の日
観音講 十一月
   日
馬 方 馬を持っている人が祝った。観音様(群馬県)代参が行き、絵馬を馬屋にかざる。
にいなめ祭 十一月
二十三日
家 庭 勤労感謝の日
ぶせねわり 十二月
十三日
 組 組の役員の交たい。人足等の収支決算をする。こぶが原講(栃木県)もする。組によって日がちがう。
冬 至 十二月
二十二日
ごろ
家 庭 ゆず湯に入り、とうなすを食べて病気払いをする。
大晦日 十二月
三十一日
同 上 正月の準備をする。二十九日苦餅といって餅はつかない。
二十三夜 毎月
二十三日
 組 五人組で5升のめし(後にぼた餅にした)をたき、組中の旦那氏が山からきて祝って食べた。
山の神 十七日 林 業
従事者
林業にたずさわる人が山の神を祝った。
寄り合い 随 時  組 相談事があると区長の家に集まった。後に当番制になった。その家ではおかずを作ってご馳走した。

上に掲げた行事は人里在住の上川乗出身者と人里出身者に聞いたものですが充分とは言えないと思います。この表を見ますと、各月には行事やお祝いがありました。また、旧の正月等には「芝居」、「三河万才」、「飴屋」、「ほうかい屋」、「タワラコロバシ」、「乞食」、「ごぜの」等がやって来て賑やかだった様です。「飴屋」、「ほうかい屋」等が来ると皆集まり、銭を出し合って芸を楽しみ、その後について廻ったそうです。

普段の激しい労働と、娯楽設備が無かった当時としては、本当に待たれる行事や出来事だった事でしょう。人里には昔、廻り舞台も有ったと聞きます。もの日には普段の食生活と違って、米、粟、きびの餅、米の御飯にだんごや山海の珍味に舌づつみを打った事でしょう。と言っても「ごぼう、人参、芋類、切り昆布、ニシン、にぼし」が主なものだったでしょう。現在では生活水準の向上、文化の発達に伴い諸行事も衰えてきました。資料としては適当とは思われませんが、農産物から当時の食生活と現在の様子をくらべてみたいと思います。

古い資料は徳川中期(1734)奥多摩の「トチクボ」に残っていたもので、東京学芸大学松村安一先生の話から得ました。当時の農作物の作付の順序を示すと、

稗(ひえ)(全農産物の四分の一)、大豆、そば、粟、たばこ、芋、大根、鳥菜、小豆、キビ、ゼンブとなっています。

新しい資料としての農産物は「檜原村」から得ましたが、解りやすくするために石(こく)数に換算しました。昭和三四年度の檜原村の取れ高は次の通りです。

麦類(527石)、薩摩芋(248石)、馬鈴しょ(185石)、小豆(47石)、大豆(30石)、米(7.4石)、里芋(2.5石)

合計で1050石となり、米なみに一人一年一石消費すると考えても、全住民の六分の一しか収穫されていません

この二つをくらべて見ましても、麦類、芋類は相当収穫されてきましたが、全般的に食生活には楽でない地帯であります。(トチクボの資料は当時の檜原村と類似していると思い引用しました。)

しかし長い間生活習慣には急激な変化はなかったのですが、その昔の人馬の往来の様子を調べてみたいと思います。

 
 
 
 

  新記より

新記に檜原村は二十三組あると記してありますが、各組(村)を結ぶ道は下図の様にしるされてあります。

この図によって各組には、それぞれ一条の往還があった事がわかります。また檜原谷から相模国、甲斐国へ出るには上川乗、事貫、笛吹、柏木野からと記されています。現在の浅間峠は中くぐり通りと称して、別名を御林山巡検の道として利用されていました。小沢組、笛吹以西は往還の事にふれていませんが、橋梁の記録からも往来はあった事と思われます。



次に橋梁の事について調べてみますと、幅員が変わっていて当時の様子が忍ばれます。

橋梁は長さ十二間(長さ約22m)、幅は八尺(約2.4m)余りで、橋の制作は杭を使わず、両岸より桁を畳子で作ってあったそうです。当時の谷、南谷の橋梁を表にすると次の通りです。

橋     1尺≒30.3cm

往来については「村内の往還は山腹を開きて小径をなす。

道巾(幅)六、七尺より八、九尺まで」となっていますが、橋梁の方から見ますと、橋梁と本宿の西川橋が道路と合った幅員を持っていて、千足の柳沢橋が五尺と広く、中里組・白倉組からの往来の様子が考えられます。

次に、広いのは幅四尺の橋梁ですが、小沢の「大橋」を除いて峠道に向かっている橋梁が、広い様にも考えられます。

@ 上川乗にあるウナガシ橋、西川橋から栗坂峠へ、または中くぐ通りへ。

A ハチウド橋から中くぐ通りへ、または大日峠へ。

B 小岩の羽根付橋から中くぐ通りへという往還が考えられます。

労を省いて北檜原小学校教頭の田中進先生著の「檜原村の交通路とその利用度の変遷」を見ますと、次の様に書いてあります。

「・・・・・・近世における駄馬道開発期とその運行範囲を要約すると、東部地区では徳川初期前後より五日市方面へ、上川乗以東は徳川中期前後には渓谷道によって宿または五日市方面へと通行したと見られる。・・・・・・」

これによりますと、道路、橋梁、峠道の往還の様子がはっきり出ています。しかし北谷の小岩以西は時間的、距離的に言っても、中くぐり通りを利用したのではないでしょうか。

 
 

  中くぐ通り

江戸末期に、秋川、小河内、小菅、丹波山地方の木炭の集荷圏であった五日市への通行は、浅間峠を利用していましたが、中くぐ通りの途中に木炭の荷置場(中継所)であったと言われる瀬戸沢があります。しかし人里、数馬地区からは宿(本宿)あるいは五日市まで一日で往復する事が出来ますので小河内、小菅、丹波山、西原の人達が主に利用したのではないでしょうか。

まゆ、生糸の生産が盛んになりますと、これらの大部分は八王子へ、そして後に西秋留へ集荷されました。峠道を通った馬方さんは帰りには日用品や必需品を馬につけて帰ってきた事でしょう。

次に中くぐ通りを利用したと考えられる小河内方面の事を考えてみたいと思います。

それは次の事によって小河内方面の人達が浅間峠を古くから利用していたと推察されます。

@ 東京学芸大・松村先生調査
 江戸中期の小河内の家族構成を調べたら、檜原出身者が七十八人いたということです。

A 檜原小学校・内倉先生調査
 内倉校長が以前調査した所、五日市の阿岐留神社に関する小河内在住の氏子が多数いたという事です。

B 最も古いもので小河内の口碑に「檜原の大将に橘の高安(約九百年前)という人がいて、檜原(籖)という一種の徴兵制度を小河内にしていた」とあるそうです。

 以上の事から、浅間道を媒介として、小河内方面とのつながりを知る事が出来ます。

 
 

  栗坂峠

次に峠をへだてた甲州方面との関係ですが、前に記した通り、新記にも甲斐、相模二国への通路は、上川乗、事貫、笛吹、柏木野からとあり、特に上川乗から栗坂峠を越して、都留郡と津久井県に行く通路が分かれています。昭和の初期まで、その分岐点には通行者の便を計るために「あずま屋」があったそうです。

上川乗部落の上手には、安永十一年(1773)建立の馬頭観音像がありますが、この寄進者名として上川乗村、人里四村(和田・事貫・上平・笛吹)、西原村と建立の講名があります。したがって他の峠道よりも往来が繁かった事が想像されます。また、この馬頭観音像の講名に、なぜ西原村が加わっているかは興味のあるところで、鉄道の開通する以前の上野原よりも、峠越しに五日市商圏に加わっていたとも考えられます。

栗坂峠といわず、浅間峠までは、各組から広い立派な道が通じていました。それは当時の家屋は全戸数といってよい程、茅葺(かやぶ)きの屋根であり、その葺き替えの茅はいわゆる「かやと」に求められました。もし屋根の葺き替えの家があると、組内の協同的な奉仕が成されました。

 
 

  鉄道の開通

明治時代になって地租改正により、田畑に地価が定められて現金を納入する様になりました。現金納税は当時としては大変な事でありました。しかし山林が多く畑地の少ない檜原村ではその与える影響が、純農村地域よりも少なかったわけです。しかし現金収入を計る副業としての木炭や養蚕業は益々盛んになってきました。蒟蒻(こんにゃく)栽培も熱心に始められました。

古老から次の様な事も聞きました。

カラカサの広さから一日の生計費を得られる畑作物は蒟蒻ばかりだ」と言われていたそうです。しかし運搬が大変だったので栽培も量産化はされなかった様です。

現在の中央線(当時の甲武鉄道)が新宿から八王子まで開通したのは明治二十二年八月ですが、明治三十四年八月には上野原が開通されました。(甲府まで全通したのは明治三十六年六月でした。)五日市線の開通は大正十四年四月でありますから、上野原駅よりも、二十四年後の事であります。この開通の相違は、南谷における商品流通にも影響を及ぼしたとも考えられます。

奥地の南谷から五日市までは、峠越しで十六〜二十粁位であり、三時間位で行く事が出来ました。

その上野原に鉄道が開通すると、沢山の品物が店頭に並び、安く売りに出される話を聞いて、大勢の人々が上野原へ日用品を求めに出かけました。行く時は木炭やまゆを背負ったり、馬に積荷させて行きました。中には運搬を主とし、帰りは頼まれた日用品を買って来る人や、品物を求めてきて販売する人もいました。南谷の地域に住む人に明治末期から、昭和前期までの様子を聞いてみますと、その往来は仲々賑やかでした。

ランプの光で 「晩には縄をない、俵をあみ」 わらじを作って足ごしらえをして、まゆやかごを背負って出かけました。力のある人は "しょいこ" に10貫目(37.5s)もまゆを背負い、馬方さんは馬に木炭やまゆを背負って峠越しをしました。コースは新記に出ていた峠道でした。往来する人々は、商品の値段や町の様子を交換し合い、見聞したみやげ話を持って帰りました。南谷の人々は上野原町にある「大和屋」という薬局屋を利用していました。薬局屋といっても、雑貨店で醤油、味噌なども販売していました。さて当時の人々がどんな品物を購入したかを調べてみますと次の表の様になります。

 衣 類  食 糧  日 用 品
仕事着、反物
下着、糸
味噌、醤油
米、うどん
なべ、かま
薬品、ランプの油

トコロテンを作るお爺さんはてん草を買いに行きました。富農家やお医者等に頼まれて米の買出しに出た人は、峠で一服して、荷の重さで力を誇ったものでした。当時は力のある人が重宝されました。

上野原では、まゆや木炭は五日市よりも高価に売る事が出来ました。人里に住んでいた漢方医者は診察が上手で名医と言われました。若いうちは、わらじばきで西原から小河内まで通いました。年寄ってからは「かご」に乗って往来しました。その「かご」は今でも人里にあります。

峠越しには色々な出来事もありました。寒い冬に上野原まで用事で出かけた人が峠で、大きな熊に出合い、思わず「ヒャー」と声を出して道を駆けおりた所に熊がいて、また同時に驚いて熊は雑木林へ、当人は上川乗まで一っとびに駆けおりた事。上野原へ買物に行って帰りに大雪に合い二尺(約60p)も積もった中をやっと家までたどり着いた事もあったそうです。戦前、五日市には姿を消した「まんじゅう」を上野原で求め、子供の喜ぶ顔を見て峠越しの苦労を忘れた事など数々の出来事がありました。

また八王子、東京に行く人も上野原を通って出かけました。したがって都市に出ようとする人は中央線でも最も近い八王子を第二の故郷とする人が多かったのです。また八王子へは製糸工場に働くために大勢の人が出稼ぎに行きました。

この様に上野原へ行く往来は仲々盛んでした。もちろん五日市方面にも出かけました。

五日市方面は主に南谷の東部や、北谷の人々が多かった事でしょう。檜原村の本宿は「しゅく」と言われておりますが、昔の馬宿でした。馬方さんや商用で出て来た人々に「うどん、一ぜん飯、かん酒」を販売した店も繁盛した事でしょう。また当時の木材は川を使って管流しをしました。川は木材の唯一輸送路で十里木や五日市の筏場まで運びました。特に冬季に行われた時は、商品である材木を燃やして暖をとりました。雨期にせっかく河原に蓄積した木材も大水が出て流されてしまうという事もありました。

一か月から二か月位かかって筏場まで運んだ人は、しゅくで暖をとり疲れをいやして帰途に着きました。その後五日市線の開通によって五日市へ足を伸ばす人もふえた事でしょう。

 
 

  通婚調査から

峰の往来は商品流通ばかりでなく、家と家との結び付きにも考えられます。この調査は嫁や婿が来た、逆に嫁や婿が行った家庭の数を十年区切りでまとめました。特に北谷との調査を加えたのは、峠の往来は甲州ばかりでなく北谷へも及んでいたと考えられるからです。

次ページの表を見ての推測では、全般的に四十年以前の通婚家庭が多く、年代がたつにつれて段々少なくなっています。一概には言えませんが、渓谷道の発達に伴って、峠をはさんだ南北への往来が少なくなっています。また、ここ十年間の通婚家庭が多少ふえているのは、四十年以前に結婚した人が、一家の主人なり主婦となって、息子や娘の結婚相手として、生家またはその近くに縁を求めたか、あるいは自宅の近くの人に嫁、婿の世話をした事等が考えられます。この調査では数馬地区の様子はわかりませんが、西原または小河内方面との通婚家庭が多いと聞きました。

通婚家庭調査に関係して、現在南谷の人々が、北谷や甲州へどの様に行き来しているかを調べてみました。もちろん峠越しの人は少なくなっていますが、現在でも峠を利用している人も居ます。
 
通婚 次に何故行ったかを概略調べてみました。
行った人
右の二つの表を見ますと、南郷は、甲州の方へは上野原と山梨県(遊覧)へ多く行き、用事と遊びが多い。

北檜原へは大沢、中里が多く、仕事と用事が多い。

次に人里地区の様子を見ますと、甲州へは上野原、西原が多く用事で行く者が断然多い。

北檜原へは樋里が断然多く用事で出向いています。

人里地区の方が南郷地区より甲州とのつながりが深いと思われます(ただし棡原、西原は上野原町(現上野原市)に合併していますので、上野原の地名が昔と異なった範囲を示している不明さがあります)。

南谷から北谷方面へは仕事の関係で、毎月行く人が人里、南郷共一、二名います。特に南郷地区から仕事で北谷へ行く人の多いのが目立っています。
 
 

  道路の発達

今まで述べてきました様に南谷の人々が、峠越しに上野原に交易を求めている時、北谷の人々は五日市商圏との結びつきと、利用面の必要性から道路、電燈に付いての開発を推し進めていたと思われます。

電燈の開通するまではランプを使用していましたが、ランプの手入れは仲々大変な仕事でした。次に各地区に電燈の開通した年月をあげてみます。

電燈 右の表を見ますと北谷の小岩までが非常に早く、人里、数馬が戦時、戦後頃と遅れています。藤原に電燈が開通したのは未だ記憶に新しい所であります。

次に主要道路の都道編入を見ますと下記の通りになりますが、都道に編入された後も徐々にその改修が行われました。

改修については第一次改修、第二次改修とに考える事が出来ると思います。

第一次改修は主に人力によるもので改修年月が長い割に、能率はあがりませんでした。

第二次改修は現在行われているものを含んで作業は機械化され能率も向上し、加えて近代的道路の形態を備えています。
 
都道編入年月日 南谷の都道改修については昭和初期より昭和二十六年ごろまで未だ都道に編入されていない人里、数馬地区を含めて各所に行われました。

代表的なものをあげますと、上川乗の通称「熊野坂」は幹線林道として昭和十四年から十六年にかけて改修工事が行われました。人里の学校の下は昭和十六年に開通しました。

また、数馬道の新道開設、笹野新道等、数多くありますが、約三十年間位の期間に改修されたものを先に記した様に第一次改修と考えられます。

第二次改修は昭和三十五年頃から始められた改修で、代表的な改修道路は出野地区のほ装化された道路であります。今後五年間位で面目を一新するでしょう。

都道編入調査によりますと人里、数馬地区の遅れが目立ちますが、別の見方をしますと当地区は峠越えの往来が便利で繁く、渓谷道を充分に利用しなかった事も原因していたと考えられます。また予算面、経済面の政治の働きが奥地へは及んでこなかったとも考えられます。

現在の都道四十二号線の府道編入に際しては北谷の人が南谷の村議を引っぱって山梨側と協議し栗坂峠までの編入に成功したという話も聞きました。しかし北谷の藤原地区が電燈、道路(一応、都道に編入されていますが)が遅れたので、小岩地区の新道(小和田橋−大橋)の通行が不自由であった事と、地元の負担が大きすぎて工事実施に踏み切れなかったからでしょう。

通称小岩新道は昭和三十年に都道に編入され、小岩以西も徐々に改修が行われていますが、まだバス開通までに到っていません。
バス開通の様子
次にバス開通の様子は下右表の通りになります。

檜原にバスが入ってきたのは昭和十九年ですが、奥地にバスが入ってきたのは、それからまた何年もたっています。

次に伝達機関として重要な電話の開通状況を調べてみますと、檜原本宿に引けたのが昭和三年五月と早い時期ですが、他地区は昭和三十四年(藤原地区は昭和三十五年)と非常に遅れています。どんなにか不便であり諸活動が制約されていたかは容易に推察されます。
 
乗物普及状況
次に乗物の普及状況を調べてみましょう。(右表)

道路の発達に伴い、自転車は原付自転車に変わり、四輪車が急増している事は職業、生活上にスピードが加わり生活領域が拡大してきています。この様になりますと地域内の固定した職業から種々の変化が生じてきました。通勤者が増してきたり、時代の影響にもよって他地域への進出や生活様式、食生活等が変化しています。

現在の生活必需品は地元の雑貨店で求めていますが、それ以外はどこへ買物に行くかを下記の様にまとめてみました。

よく行く所 右の表によっても五日市町に多数行く事がはっきりしていますが、五日市から鉄道、バスも通って時間も同じ位な立川よりも、八王子へ多数行く事は、八王にこの地区の出身者が多いからだと思います。将来はどの様に変わる事でしょうか。

次に生活に影響を与えているテレビの普及状況を調べてみましょう。人里地区の例を取ってみますと、昭和三十九年二月現在で百四台(87%)と驚異的に普及しています。全村的にみても約七百五十台(約68%)になっています。人里地区の様に地形的に電波事情の悪い所は「テレビ共同聴視組合」を作って文化の恩恵を受けている所もあります。時間的、地形的な条件を超えて家庭に入りこむテレビは昔の閉ざされた時代と違って大きな影響があるでしょう。
 
 

  あとがき

峠越しの交易の生活が、長い間続いた檜原の奥地の生活や、そこに住む人々の風習や、考え方を変えていったものは何が原因するでしょうか。もちろん、時代の変遷や、世界および国内の動向によりますが、身近な出来事によるものを要約すると、次の様にならないでしょうか。

、電燈が開通し徐々にラジオが普及した。
、道路の改修により、バスが開通し、個人の乗物が動力化され、
  車両の交通が繁くなってきた。
、全部落に電話が開通した。
  更に地域性を超えて、どの地域でも同時に聴視出来るテレビが普及してきた。
、峠に囲まれた障害を無くす循環道路が開発されつつある。

特にについては現在工事が進捗しつつあります。都道の改修工事の外は次の通りです。

@ 中くぐ通りの浅間林道
A 栗坂峠から上野原に通じる新道開発
B 昭和四十一年度までに完成するという数馬、奥多摩湖を結ぶ有料道路
   (実際の開通は昭和四十八年四月になった。現在は無料道路。)
C 笹平の小坂志林道
D 神戸の林道

これ等の数多い道路の開発は、昔、人馬で越した時、間道の峠と結び付いています。

極論になるかもしれませんが、檜原の往来は峠道の利用→渓谷道の発達→更に峠道の利用になるとも言えるでしょう。閉鎖された袋小路の村から四囲に解放された村となる訳です。この様に変わってきた檜原村も大正時代から人口は一向に増加はしていません。 (現在の人口は、これが執筆された頃に比べて半数以下になっています。)

即ち「三チャン(=じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん)山村」の様相がある訳で、この様な村の変遷は教育の場にも見逃されない事でしょう。

これからの地区は、長い間の格差をなくしていく地域の人々の努力と、政治の力が大切だと思います。更には観光資源、施設の開発、産業開発等がなされていく事と思われます。

今後の檜原村はどんどん変わっていく事でしょう。昔の色々な出来事や風習や道具も姿を消していく事でしょう。老人に話を聞いたり、使わなくなった農具や日常生活に使われた道具等は蒐集して、散逸を防ぐ事が大切であると聞きました。もちろん、それは昔の様子がわからなくなっていくからです。

以上を不充分な資料でまとめてみました。内容的にも未熟ですので御叱声、御指導をお願い致します。資料は勝手ながら次のものを使わせていただきました。また収集につきましては南檜原小学校の先生方の手を煩わし、南谷の父兄の協力を得ました。

 (参考資料)
   「檜原村の交通路とその利用度の変遷」田中進先生著
   新編武蔵風土記稿抄(檜原地区)
   私たちの西多摩
(昭和三十九年執筆)

  おわりに

何事にも@よく知ること、A夢を持つこと、B計画すること、C実践することが大切です。

学問を進めるには@志を立て、A勤める、B好きになる、ことだと言われます。人は学を好んで智に近づき、力行して仁に近づき、恥を知って勇に近づくように、生きがいを求めて時を大切にする事が大事だと思いますし、私も現代の存在者として努力していきたいと思います。

現在、小岩の王子ガ城、人里の仏像、浅間の伝説、橘橋、大岳等々、約千年位前の檜原村のことに深い関心と興味があり、調査を始めたところです。いつかまとめてみたい欲望にかられています。
 (姉妹ホームページ 地名が教える古い檜原村の歴史の足音 にまとまりました。)

今後よろしくご指導とご叱正賜わりますようお願いします。
 
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