昔の檜原村物語

 
    太古の檜原村、大昔の檜原村、少しばかりの昔の檜原村 にタイムスリップをしてみませんか。
 
ご案内役: 檜原村出身 岡部駒橘
 
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  みどりの里と浅間尾根

きれいな空気そして水と緑に象徴される檜原村の山河は、人々の営みや出来事を古代から無言のうちに眺めながら現代まで、すべてのことを大きく包みこんできている。

林業不振で悩んでいる村は地場産業の発展を願い試行錯誤しながら努力を重ねているが、一方、日本の社会は高度技術化し、高水準の生活の中で大自然を求める人々が増加している。

その人々の観光地としての村の新しい生き方も求められている。村の中央を東西に走る浅間尾根は今、森林浴や関東ふれあい道のコースとして脚光を浴びてきたが、ここに都会人を魅きつける史跡が発見できないだろうか。

さて浅間尾根は昔、甲州中道として旅を急ぐ人や秘めやかな行動を求められた人々には大事な間道として、幾多の名のある人、無名の人が通過していったようである。

その中で戦国の武将武田信玄の姫として生まれた「松姫」も八王子へ逃げる途中にこの浅間峠を通ったと思われる。通過しただけでなく生涯の思い出の中に、この檜原村での出来事が脳裏に深く刻まれたのではないかと想像するのである。一つの物語として読んで頂きたいと思う。


 
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  一枚の絵図から

長い戦国時代が終わり、徳川家康が江戸に居城するようになると、檜原村は天領となり徳川家の支配下になった。

それ以前は檜原村はどの領主に属していたのだろうか。

昭和三十一年頃、村内下川乗の清水家から一枚の絵図が発見された。

この絵図は、当家の言い伝えによると古い時代に村内小岩の土屋家が所持していたが、土屋家から清水家に嫁いできた先祖が持参してきたのだという。古い時代には嫁に行く者には実家の大切なものを形見分けとして持たせるという風習があったと言い伝えられている。

この絵図を調べることで檜原村は甲斐の武田家と関係していたらいしいということがわかり、現在、村内各地で「武田家の落人」といわれていることが、むべなるかなとうなずけられるのである。

さて、絵図の中に次のような言葉が載っている。


この文と次の文を比較すると一つの結論が出そうである。

上野原町(現上野原市)史に次の言葉が記されている。

「天正十九年四月甲斐国(都留郡)加藤遠江守光泰封ぜられる。文禄二年八月二九日没す」 とある。加藤遠江守が三か年間支配していたが、その領内に檜原村が含まれていたのである。

徳川家康は天正十八年七月、豊臣秀吉から関十州を与えられ駿河から江戸城に移ってきた。

しかし豊臣秀吉は油断をせずに腹心の加藤遠江守光泰を甲斐の領主として封じ、関東の西の強力な押さえとして徳川家康をけん制する政策をとっていた。その加藤遠江守は関東に接する郡内地方の代官として加藤作内光忠を任じ治めさせた。郡内における加藤家の勢力は強大であり充分にその任に応えることができたのである。

しかし文禄二年に加藤光泰が没すると、後任として浅野弾正弼長吉(後の長政)が文禄二年十一月に領主となり、その家老の浅野左衛門佐氏重が郡内代官に着任した。文禄三年二月には入部左京大夫長継親子が甲斐に同勤するようになった。加藤遠江守の時代からみると甲斐と武蔵の境にそそぐ目もいくらかゆるんできたことは歪めないものがある。

さて絵図には「」と記してあるが、は文禄二年(1593)から五年後の慶長三年(1598)に亡くなっている。前記の文は秀吉生前の情勢を表しているので、記載時期も秀吉の生存中であると推測される。

 
 

  行軍図(絵図)の年数の謎

天正・文禄の時代は檜原村が武田家の傘下であったことがこれで証明されたことになる。

武田家滅亡の折、信玄の四女松姫は甲州から八王子の上案下に落ち延びたのであるが、その行程を明らかにするものは何もなく。推測に頼る外はないのである。

ところが檜原で見つかった絵図は、武田家最後の概要を巧みに記してあるばかりでなく、松姫逃避の道筋と八王子に居を構え落ち着いた松姫が、世の中がやや平穏になった時期を見計らって秘密裡に兄勝頼一族と父信玄の墓参を決行した行軍図と見てよいのであろう。

(行軍図といっても隊列を整えて移動するのではなく、大勢の人が同じ目的地に向かって移動する事を意味する。)

この行軍図の表し方で苦心してあるのは、松姫が信玄や勝頼の墓参したことを秘し、檜原村において武田家の家臣が勝頼と氏重そして田野で討死した家臣の供養をしたと読ませるように記してあるところである。

それは松姫の墓参は公然と実行される情況ではないことである。徳川家康の統治下であることと武田家の姫が甲斐に姿をあらわせば騒動の種となることは火を見るより明らかだからである。

絵図は檜原を中心に西原までのことを載せている。

そこで絵図の年数を解読してみたい。

@行軍図の右端の出発地には次の記載がある。
 伊奈賀原  一軍
   天正元癸西年二月十一日
天正元年は武田信玄が駿河を攻めている中途において病死した悲しい年ではあるが、二月を特に強調する事柄が見つからない。ところが、天正十壬午年二月十一日と書き換えてみると、俄然意味が違ってくる。

天正十年二月十一日という日は、織田信忠が武田家追討のため五万の兵を安土城(滋賀県)から進発させて下伊奈に侵攻してきた日である。一方信長の重臣森長近軍三千の兵が飛騨口(岐阜県)から侵入してきて下伊那で合流した日である。

A次に檜原の小岩の所には次の記載がある。
 天正元癸西年二月廿日 小岩 弐泊
同じく十年ずらした天正十年壬午年二月二十日は徳川家康が古府中への侵入を図るため、軍勢三万五千をひきいて遠江の浜松城(静岡県)を出発した日である。@とAの月日は武田家滅亡のもととなった敵方の目立った月日であった。

(なお武田家の姻戚関係にあった小田原城の北条氏政は、三万の兵を引き連れて武蔵から上野(こうづけ)を通り、信濃の北側から武田領へ侵入しようとしていた。)

さて、この絵図の十年のずれをどのように考えたらよいであろうか。

五日市町伊奈から檜原村小岩までの距離は時坂を通ったとして十五粁弱しかなく、昔の人なら半日で充分である。行軍図の十日間のずれは説明しにくい日程である。何かの出来事の日に合わせた見る方がよさそうである。

さて、前述の行軍図の天正元年と天正十年のずれの謎をどうひもといたらよいだろうか。

もし当時、この図が徳川方に入手されれば、この行軍に加わった人ばかりでなく、松姫もそのままでは済まないことを筆者が察知していたからであろうし、万一徳川方に渡っても意味のないものとして見過ごされるような配慮で書かれた歴史絵図であろう。

 
 

  松姫の生い立ち

さて、この物語の主人公である松姫の出生と檜原浅間を通らなければならなくなった事情にふれてみたいと思う。

松姫は永禄四年(1561)九月、古府中のつつじが崎の産所で呱々(ここ)の声をあげた。

父武田信玄はちょうど信濃の川中島へ出陣していて、越後の好敵手上杉謙信と合戦のため一万5千の軍勢を引き連れ、野営している時であった。四十一歳になった信玄は「姫出産」の知らせを聞いて大変に喜び、陣営の回りに生い茂っている老松の優雅と気品に満ちた姿を眺めながら、生まれてきた子もかくあれと「於松」と命名して奥方に伝えるようにと使者を帰した。於松の母は石和の東、油川に居住する武田源左衛門慰油川信友の娘で油川ご寮人(三十三歳)といわれる人である。

姫の誕生を喜んだ信玄はつつじが崎の屋敷の中に小さいながらすばらしい館を造らせた。

館が出来ると油川ご寮人と於松姫が住むようになったので「新館の姫」と呼ばれるようになった。於松姫は小さい時から聡明でやさしく、しっかりしていたので「新館姫」として皆から大変かわいがられた。

於松が八歳になった永禄十一年に織田信長の懇望により信長の嫡子奇妙丸(十一歳、後の信忠)と婚約をした。この婚約には武田家の家臣一同は大反対であった。それは武田家は甲斐・信濃・駿河・上野に力を伸ばし、更に広くまで勢力を伸ばそうとして各地の武将から恐れられていたからである。なお武田家は清和源氏の流れをくみ、源経基・頼義そして義光の三男義清が甲斐に土着して武田家の始祖となった立派な家柄でもある。

一方の織田家は、越前の丹生の織田の里(福井県)に興り、父信秀は尾張の守護代である清州の織田家の家老であったが主家を凌ぐ勢力を持つようになった。父の後を継いだ信長は四年めに主家を滅ぼし清州城を奪って尾張半国を治める小豪族であったからである。

しかし信玄の胸中には上洛して天下に号令しようという大きな望みがあったので、京へ上る所にいる信長と縁をむすんでおくために反対する家臣を押しきって婚約させたのである。

それから四年後の元亀三年(1573)、信玄は遠江に進撃して三方原(みかたがはら)で徳川方の軍勢と戦った時、織田家の佐久間信盛が三千の兵を率いて徳川方に味方をした。これを知った信玄は怒って松姫と奇妙丸との婚約を破棄してしまった。このことによって、まだ対面したことのない奇妙丸を背の君と決めていた松姫は一生を独身で過ごす覚悟をしたのである。

戦国時代の女性は、武将間の政略のための犠牲になっていたのである。また当時の女性観として二夫にまみえずの思潮もあり、それが貞女とされていた。聡明で心根のしっかりしている松姫の二夫にまみえずの決意は固かったに違いなかった。その翌年の元亀四年(七月天正と改正)に親愛されていた父信玄が病没した。大切に愛育してくれた油川ご寮人は信玄に先立って病死しているので、十三歳になった松姫は孤独の身となってしまった。

 
 

  流転の旅

時も移り天正九年十二月、武田一族はつつじが崎の館から新築された韮崎の新府城に移った。運命の天正十年正月には新府城において武田家一族の新年会と新築祝いが催された。

この新年祝いの会に参列した高遠城主で松姫の実兄仁科五郎盛信は、二十一歳の見目うるわしくなった姫を高遠城に連れていき結婚をすすめたが松姫はこばむばかりであった。

高遠城の兄のもとで信愛の情にひたり逗留してから一か月程過ぎた時、木曽義昌の謀反の知らせと続いて織田信長の大軍と徳川家康軍が高遠城や古府中に進軍してくる情報が入ってきた。武田勝頼は茅野の上原城に軍を進めていたので仁科盛信は情勢判断から決死の心を秘め、松姫に諄々と今後の予想される戦況について語り、姫のこれから行くべき途について諭した。聡明な姫は兄の心情を察し共に高遠城に残る事を希望したが、兄の子督姫(小督)の行く末を頼まれると盛信の意に従い督姫を連れて新府城に帰ってきた。盛信は信頼できる家来に因果を含め、督姫・松姫の行く末のことまで頼んで同行させた。その家臣は平岡・加藤・上条・内藤・丸山・窪田・猿橋と小沢氏と侍女達であった。

新府城に帰った松姫は留守を守っている勝頼の北条夫人に事情を伝えた。既に勝頼から事態の容易ならない知らせを受けていた北条夫人は勝頼と運命を共にする覚悟でいたので、小督と共に勝頼の子貞姫と、人質として城中に居た小山田信茂の養女香具姫の同道を頼んだ。

松姫一行は高遠城から同道してきた家臣に加えて北条夫人から頼まれた姫と家臣・侍女共々に逃避行の準備を急いで整えると、東方に向かって出発した。

松姫一行はとりあえず山梨の栗原に武田家重臣の姫が尼僧として住んでいる海洞寺があるので、そこに身を寄せてしばらくの宿とした。風聞として兄仁科盛信が三月二日城を守って壮絶な討死をしたことが伝わってきた。高遠城で聞いた兄の予測が的中した事を感じ小督をしっかりと抱きしめた。

しばらくして勝沼を通って駒飼方面に兄勝頼が落ち延びていく、という話が伝わってきた。

新府城は勝頼軍自らの手で火を放ち焼失させたともいう。三月十一日には田野において兄夫妻一族がことごとく討死してしまったという悲報が入ってきた。前途を悲観した姫は自ら命を絶とうとしたが、側にいた家臣・侍女に止められ、また盛信に託された督姫・北条夫人に頼まれた貞姫の行く末を思うと生き長らえなければと悲壮な覚悟を決め、父信玄から賜った不動明王に向かい朝夕に祈っていた。

かくする中に付近に敵の兵士がうろつくようになり、食糧等を補給する家臣の苦労は並大抵ではなかった。また、武田方の残党がしばしば織田方を悩ます行動の挙に出たので、織田方では残党狩りに出たというしらせが届いた。神社・仏閣を問わず手厳しい捜索をして関係した人も惨い仕打ちを受けると聞いて、松姫は家臣を集めて善後策を協議した。その折、海洞寺の尼より塩ノ山にある向嶽寺の住職は、武蔵国の寺院とつながりがある、ということを聞いて向嶽寺に逃避先を頼む事に一決した。

取り急ぎ向嶽寺に赴くと向嶽寺の住職は快く受けいれ八王子の金照庵がよい所だからと、保護依頼状をしたためた上、一夜の宿を提供してくれた。その夜、向嶽寺の住職は武蔵の国までの道筋をくわしく教え励ました。幸い供の中に西原・檜原方面にくわしい者がいたので大変心強くなり、翌朝厚く礼を述べると大菩薩方面に向かって険しい山道を辿って行った。

幸い、初鹿野・勝沼・石和方面とは方向違いの山中へ向かっているので敵兵の姿もなく、油断怠らないうちにも安堵する思いで小田原を過ぎ裂石に到着した。ここには武蔵からの侵入を食い止める拠点でもあり、武田信玄庇護の雲峰寺がある。日は高かったが今から山に登るには途中で日が暮れるし、幼子を抱えて疲れている一行は一夜の宿を頼んだ。

快く受け入れた雲峰寺に入った松姫一行はびっくりしてしまった。

雲峰寺の武者隠し部屋の中に武田家ゆかりの大切な品々が仕舞ってあるではないか。

実は勝頼一行が田野において討死する折、自刃を決意した勝頼は主人と生死を共にしたいと願う家臣に武田家重代の宝である品々を、雲峰寺に隠し、敵の手に渡さないように頼んでおいた。それは雲峰寺が深い山中で武田一族しか知らない隠れ寺だからである。

勝頼から討死と同じであると諭された家臣十人は供の者に秘物を背負わせて涙の別れを告げ、夜明け前に出発した。険しい日川を遡り、木賊を通り、武田家ゆかりの栖雲寺で一休みするももどかしく、また坂道を登っていった。

源次郎岳で小休止し、砥山から雲峰寺にその日の暮にたどりついたのである。

運んできた者たちは、志村・馬場・柴田・金丸・中沢に護衛を一任して、武蔵・西原方面に散っていった。このように武田家の遺品隠しを頼まれた者は丹波・西原・檜原・小田原方面の出身者が主であったので各地へ落ち延びていったのである。このようにして運ばれた武田家重代の遺品を目の前にして松姫は涙にくれるばかりでであった。

翌朝、天気は好かったが寒い風の吹く中を出発した。遺品を護衛している家臣も道案内がてら荷物を持って送ってくれた。

砥山(1605米)で休み、石丸峠を通りオオマトイ山、鶴寝山を過ぎ、奈良倉山からひなびて目だたない腰掛けの宿に着いた時は、日の暮れる直前であった。松姫一行といっても松姫と幼姫、そして家臣と侍女と少人数の供を入れても二十人を越す大人数である。

家臣小沢氏を中心に秘策を練り、織田方の敵卒はいなくても土賊襲撃や食糧調達の事を考えると三組に分かれて行動する事がよいということに考えが一致した。大勢の一行がここまで来られた幸せを思い、松姫も松姫も分かれて行動することを承諾した。

@ 一組は腰掛けから沢を渡り棡原の猪丸を抜け、小伏に泊ってから黒田・上岩を通って鎌沢に出て和田峠から上案下へ着く道筋で、小沢氏が督姫を連れていくことになった。

A 二組の中央は松姫と貞姫を中心に石原から大日峠に抜け笛吹から浅間峠に出て、檜原の平山氏に挨拶し、臼杵・市道・醍醐丸から上案下へ向かうことにした。向嶽寺の住職から八王子に落ち着くにしても檜原郷の平山氏の添え状が大切であると知らされたからである。

この一行には志村・丸山等と共に地理に明るい者が付き添い、檜原城に宿泊を頼む事にした。

B 三組は小菅村に小山田氏の忠臣小菅五郎兵衛忠之が勢力を持っていたので、小山田信茂の養女香具姫を連れて西原から三頭山に登り風張り峠から藤原に泊り尾根通りから小岩に抜け、平山氏の居城である檜原城で松姫一行と落ち合うことにした。

檜原城の平山氏は北条氏照の家臣である。

北条氏政の弟である氏照は八王子方面の領主であり、松姫一行が落ち着こうとする上案下の金照庵やこの檜原の城も氏照の威令が及んでいる所である。また武田勝頼の北条夫人は氏政の妹であり、氏政の夫人は勝頼の義姉になっているので、氏照や平山氏は松姫一行を庇護してくれるものと信じての逃避行である。

金照寺はまた、武田家にゆかりのある向嶽庵の第三世俊翁令山和尚が至徳三年(1384)に開山したものであり、金照寺と向嶽寺は門徒兄弟の間柄なので、金照寺を目指したのである。

さて現在の佐野川上流の和田地区は「姫街道」と呼ばれ上案下峠に近い所である。一方藤原の日向平には貴い人が泊ったといわれる家があり、銅鏡が出土している。更に檜原の浅間には松生山(まつばえさん)がある。

「昔、松が沢山育っていただろう」と地元で言っているが、現在は一本も生えていない。

生(はえ)は「ハユ」→「オフ」または「ノブ」と読み、「育つ・かたる・だます・知らせる」等の意味がある。松姫がここで一休みしている時に、家臣が平山氏に通過と庇護のお願いに檜原城に出向いたのだろう。

使いが戻ると松姫一行は小岩から時坂に出て平山氏の館に宿泊することにした。

行軍絵図に橘橋東の上元郷から臼杵に線が登り の示しがしてある。松姫一行は藤倉から追ってきた無事な香具姫一行と合流して、二日後に上元郷から臼杵・市道を通って上案下に到着して、前日に着いていた督姫一行と一緒になることができた。

 
 

  信松尼となる

さて、金照庵に落ち着いて幾日か経った或る日、松姫は四月三日に恵林寺が焼き討ちに遭い快川和尚が自決した話を悲しく聞いた。

金照庵に住んでいる時期に、松姫に対して近隣の若者から結婚の申し込みが数多く寄せられたが姫は顧みることをしなかった。そして長く逗留しているうちに下恩方の心源院に隋翁舜悦、通称 ト山和尚が居住していて北条氏照やその夫人・重臣が深く帰依する程の立派な坊さんであることを知った。

ト山和尚は向嶽寺でも修行したことがあり、松姫に移り住むように密かにすすめてきた。

松姫は世の無情と旅を通しての恩義を感じ尼となる決心をして、秋深くなった頃に心源院に身を寄せた。身を寄せた松姫が尼となる決意はとても固く、また氏照に会うのにも尼の身の方が都合よく、連れてきた姫たちの安堵に繋がると信じていたからである。こうしてト山和尚の手によって黒髪を絶ち「信松尼」と名乗って武田家一門の冥福を祈る人となったのである。

その後、時移り天正十八年六月、豊臣秀吉の軍勢が北条氏や平山氏を滅ぼしてしまった。同年八月、徳川家が江戸に移ると武田家の遺臣や同心衆を甲斐の国から元八王子へ移住させた。甲斐と武蔵の境を守らせるためと、北条氏の残党があばれないために秋川方面を含めて、北条側、武田側の交わり合わせて住まわせる作戦であった。

家康の命で元武田家の家臣が八王子にやってくるという報は、下恩方の心源院に居る松姫にも伝わってきた。何よりも喜んだ松姫は自分に会いにくるだろう元家臣のために、訪問しやすい地へ移る決心をした。一方知遇を得ていた北条氏の滅亡の戦火を見て、世の無情をまたも感じたからである。

側に居て何とか世話をしてくれていた家臣が、東の方できれいな水の湧く御所水の里(台町)へあばら屋を建ててくれたので、天正十八年の冬の押しつまった時期に移って行った。

天正十九年には旧武田家の家臣がまた、甲斐から元八王子に移ってきた。文禄二年(1593)になると世の中が平穏になり甲斐・武蔵の境目の心配よりも八王子地区の開発が重視されるようになってきた。そこで家康は元八王子に武田家遺臣を東の横山の里に移した。春に移動した家臣は暇を見ては信松尼を訪れたが、そのたびに信松尼の心に田野の里で討死した兄勝頼一族の供養のため墓参したい熱望があることを知った。

松姫(信松尼)は甲斐から移り住むようになった遺臣から、勝頼親子や忠臣が討死した田野には家康の命令で景徳院という立派な寺院ができ、懇ろに祀られていることを聞いて一層甲斐行きを願っていたのである。

信玄尼の心情を察した重だった遺臣たちは密かに連絡を取りあい秘策を練った。

まだまだ武田家の姫である信松尼が表だって甲斐へ行ける社会情勢ではないからである。

 
 

  甲斐秘行

文禄三年まだ農作業が始らない早春の或る日、雑木林に覆われた伊奈っ原(五日市)の街道にあちこちから人影が近づき、一人の女性(にょしょう)を中心に集まってきた。朝もやの中の人物は信松尼一行であった。一行は途中で仲間を加えながら活き活きとした中に静かに檜原に向かった。

檜原に着くと、あの逃避行の時、世話になった平山氏重館跡にたたずんだ。天正十八年七月落命した氏重父子の墓に詣でて冥福を祈った。一行のうち秋山久蔵・多田宗六・小宮掃部等は檜原城の南峰のろき山(高く四方を見渡せる山)を越え、笹野馬場(ばんば)に居を構えている元平山氏の家臣志村仁左衛門方を訪れ、今回の甲斐行きの趣旨を告げ協力方を頼んだ。この地方の地理にも明るい志村は喜んで同意した。一夜を共にした一行は檜原浅間に向かった。

一方、秋山民部、神林清十郎一行は松姫と共に小岩の土屋家に一泊した。

翌朝は雪の日であったが約束通り出発したが難渋を極め、笹野組とやっと合流すると浅間嶺を進んだが、峰道はよいとしても谷を下ることは危険だったのでカサガ原(今の石宮(イシミヤ)・石神(いそがみ))に仮の宿をとった。

翌朝はよい天気に恵まれたが雪の中を道をさぐりながら笛吹ぢん屋までたどりつき一泊した。この時、笛吹に住んでいる住民の温かい援助を受けた。甲斐から逃避行の十二年前と今では、西原・腰掛はどの様に変わっているだろうか。

一行は笛吹ぢん屋にもう一泊して物見に出した報告を待つ事にした。幸い何事もない報告を受けた一行は雪の山道を下り、その日の内に腰掛に着いた。腰掛は山峡の深い深い山里で、少数の気持のよい人が住んでいる隠れ里である。鶴川という名の川は西原の西で、西と東から流れてきた川を合わせ南の山の中に向かって流れ、塩山と反対に流れているように思いがちがちである。まさか腰掛から塩山方面に行けるとはとても考えられないと錯覚させる地形である。しかも辺境の地で山坂がけわしいので行き先をくらますには最適の地である。

一行は腰掛に一泊すると鶴寝山を通りオオマトイ山を過ぎ、一気に雲峰時まで足をのばして仮の宿をとった。風聞として聞こえてきた田野や恵林寺の様子を聞いて一夜を明かした。

夜が明け、砥山、石丸峠に出ると霊峰富士の姿が見えた。一行は一気に日川を下り、栖雲寺を通り、片手切場の説明等を聞き景徳院に着いた。天正十年広厳寺の拈橋(ネンキョウ)和尚が死者を葬り田野寺を建てたが、徳川家康は拈橋和尚に命じ天正十六年堂塔を建て景徳院と改名したので立派な寺が建っている。

感慨無量の信松尼は時のたつのも忘れ、討死した人達の冥福を祈った。

後ろ髪をひかれる思いの信松尼一行は景徳院に別れを告げ、勝沼町柏尾にある大善寺に向かった。大善寺には理慶尼が庵を構えていた。

理慶尼は信玄の父武田信虎の弟の勝沼五郎信友の娘なので信松尼とは従兄弟の子になる間柄である。勝頼が岩殿山に落ち延びようとした時、一夜の宿とした所でもある。

信松尼一行の来訪を心から喜んだ理慶尼は、出来るだけのもてなしをして、その夜は二人で夜のふけるまで話し合った。

この理慶尼が世に言う『理慶尼の記』を遺(のこ)したのは、この時の信松尼との出会いが大きな引きがねになったような気がしてならない。

翌朝、理慶尼との別れを惜しんだ一行は、海洞寺・向嶽寺に向かい、厚く礼を述べた。

恵林寺にも立ち寄り、父信玄公の墓に詣で、今までの事を報告する信松尼であった。

そして心忙しく雲峰時に向かい、その夜は武田家の遺品を万感迫る想いで眺めるのであった。

翌朝は、また、あの逃避行と同じ道を辿り、隠れ里の腰掛に安着した。

この長い行程は信松尼の念願であり、生涯心の奥に刻まれる出来事であった。

五日間の腰掛の生活を過ごした一行は帰路に着いた。檜原の絵図に次のように記してある。

「伊奈原より小岩ニ泊り その後かさが原峠泊り その後笛吹ぢん屋泊まり 其ヨリ西原こしかけに五日間之間泊り其ヨリのぞき山にもどり内々に千足江奉候也」

腰掛を遅く出発した一行は笛吹ぢん屋で泊った。翌日仙元峠でこの一行や知っている人の供養を浅間神社北麓の寺で行なったあと、その日は小岩に下り一泊した。

絵図の浅間神社そばに次の記載がある。


のついた文字は景徳院の戒名と違っている所である。女中十弐人とあるは信松尼が兄勝頼と共に討死をした女性への供養の心根であろう。


絵図で村外に出るように書かれている人は次の五人である。実は田野で討死していることになっている人である。
  絵図記入の者   景徳院戒名の者
  秋山民部   秋山民部丞光明
  神林清十郎   神林清十郎定親
  秋山久蔵   多田久蔵盛房
  多田宗六   岩下惣六郎
  小宮掃部   小山田掃部介義次

これらの違いは何故だろうか。

浅間で供養した戒名の違いは 音(オン)が合っているので一行がおさえてきた記憶違いだろう。

しかし次の村外に向けてある五人はずい分違っているが、この絵図を書いた人物が小岩の人であり、接触の少なかった五人についておぼろげな記憶で書いたものと思われる。

討死したはずのこの五人は生きていたのだろうか。小宮山内膳正友信(討死)の弟の拈橋(ネンキョウ)和尚が田野に駆けつけて武田将兵の死体を調べ葬った時、四十数名の氏名を正確に捕えられたであろうか。知る者の手助けを受けても全員確実に知っている人は居なかったかもしれない。だから生きのびて松姫一行に加わった人が自分の戒名を見つけて感慨に浸ったであろうし、景徳院の戒名を自分の死後の戒名にしようと決めただろうと想像できるのである。

甲陽軍艦には二十四名、現在の大和村の記録には討死殉難者の武士は三十四名になっているので、不明の人は十名〜二十名に及んでいるのである。討死とされている人の中には勝頼の命によって血路を開き「日の丸の御旗・孫子の旗(風林火山の旗)・楯無鎧」を雲峰寺へ運び出した者も含まれていたのだろう。

さて、浅間で供養して小岩に一泊した一行は、松生山から又土を通り笹野の志村家で落着き、翌日のろき山を通って千足に向かった。

千足には平山氏重親子と重臣を祀ってある御霊神社が建てられていた。小沢宝蔵寺住職によって勝頼親子・家臣そして平山氏一族の供養が松姫一行の願いによって懇ろに営まれたのである。この時、宝蔵寺の住職が供養したのは小沢宝蔵寺は平山氏の建立した寺であり、檜原の幻の豪族橘高安の立派な位牌も安置されている由緒ある寺だからである。

八王子に住みついた信松尼は、実はこんなに檜原と深いつながりがあったのである。

檜原は大昔から隠れ里であり、間道の重要な通り道に当たっているのである。

供養を済ませて心の荷をおろした信松尼がその後も八王子に住み、畑の仕事、養蚕、機織りにいそしみ、幾多の苦難に打ち勝った人間として仏に仕え念仏の日日を送ったことは皆さんがご承知の通りです。
(昭和六十二年一月執筆)

 

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