昔の檜原村物語

 
    太古の檜原村、大昔の檜原村、少しばかりの昔の檜原村 にタイムスリップをしてみませんか。
 
ご案内役: 檜原村出身 岡部駒橘
 
トップページ 檜原誕生の物語 六枚屏風の誕生 和田の落人伝説 松姫様が檜原を通った? 南谷の昔と今
 

  昔昔 ― 六枚屏風の誕生 ―  

美しい秋川や加住丘陵(秋川丘陵)、そして秋留台地は秋川市(現あきる野市)に住む人の生活と憩いの場であると同時に、人生に潤いを与える故郷です。

六枚屏風 この故郷の地形は大昔からこの様な姿をしていたのでしょうか。

都の天然記念物になっている六枚屏風は、いつごろどうしてできたのでしょうか。興味をそそるできごとです。

 

(編集担当 注: 最近の六枚屏風は、「六枚」屏風で無くなりつつあります。
六枚屏風は、檜原村からは少し離れますが、著者、岡部駒橘氏が初代校長を務めたあきる野市立一の谷小学校のすぐ目の前にあります。)

 

おしゃれな電動自転車や折りたたみ自転車などが、あっ!と驚きの価格で。
電動自転車なら、きつい急な坂道も平気で登って行けます!


加住丘陵は六枚屏風に見られるように西瓜や握り飯程度の大きさの礫(小さく丸くなった石)と凝灰質(噴火したもの)の砂と赤い火山灰土でできています。丘陵の地質は凝灰石(大谷石)になりきれず固まっていないので雨水に流れやすく悪地の地形といわれています。

この加住礫層と呼ばれる丘陵はいつごろたまってできたのでしょうか。

昭和五十三年に三の谷奥にゴミ処理場を建設するためパワーシャベルで礫層を掘っていたところ不思議な化石が出てきました。

西秋川衛生組合職員の落合栄一さんが「象の化石だ」と判断したのがきっかけとなり、調査団が調べたところ、ステドゴン・ボンビフロン象という二本の牙が真直ぐのび、肩までの高さが四米もある大型の象だとわかりました。

この像は三百万年位前に住んでいたものといわれています。

この近くからは鹿やメタセコイヤの大木の化石が見つかっていますので、新世代と呼ばれる時代の中の鮮新世(五百万年から百七十万年位前)の頃に上流から流れてきた礫や土砂、そして大噴火の火山灰土が長い年月の間にたまり、草花・加住・多摩の各丘陵につながって陸地を作ったものではないかと思われます。その陸地の上をメタセコイヤなどの大木が生い茂り、象や鹿が走りまわっていたと想像されます。

東中神駅前商店街 昭和三十六年に拝島鉄橋近くの多摩川で、今から百五十万年以前のヒゲクジラ(アキシマクジラと命名)の化石が発見されていることから、現在の丘陵の東側は当時海だったのでしょう。
  (注: 写真は東中神駅前商店街)

気の遠くなるようなその頃、六枚屏風はできていたのでしょうか。草花・加住・多摩の丘陵が一つづきになっていた頃ですから勿論なかったわけです。

その頃、海辺に打ち寄せる波と流れる大川で徐々に今の地形に似た形ができたでしょうか。

実は今から数万年から二十万年位前に五日市町(現あきる野市)の高尾山と天竺山がつながってしまい、旧五日市町地区は大きな湖になったろうといわれています。

(注: 下の地図の付近では、秋川は左から右の方向に流れています。)

 

より大きな地図で 高尾山と天竺山 を表示     高尾山、  天竺山

その頃は丁度、洪積世(氷河時代)にあたり、八ッ岳・箱根・古富士などが大噴火を繰り返していました。一方、氷河時代といわれる長い氷期とその間の暖かくなった間氷期が繰り返されているうちに、高尾山と天竺山の間が切れて秋川の水が一挙に流れ出し、山を削り川を掘りさげて地形を変えていったのでしょう。また、この氷河時代の間氷期に大雨が降り続き、大洪水がしばしば起こって丘陵を削って今の地形を形作って今の地形を形作っていったのではないかと想像されます。

どちらにしろ想像もつかない土砂が上流から流れてきて丘陵を削ったり堆積させているうちに加住丘陵と草花丘陵が出来、その間を秋川と平井川が流れている。長い間に秋川は南の方に徐々に移り、平井川は北側に寄って現在のようになったのでしょう。

長い年月の間に大洪水が起こるたびに川の底は深く掘りさげられ段丘をつくっていきました。

川の流れが徐々に定まってきて加住丘陵を掘りさげた時、悪地地形の地層のため六基の土柱が屏風のように残されたと考えられます。

昔昔、六枚屏風が生まれ、秋川市(現あきる野市)の地形がこうして出来たのだろう、というお話です。

  参考文献 「化石は語る。五日市むかしむかし」

(昭和五十八年十一月執筆)

 
Copyright © 2012 昔の檜原村物語 All rights reserved.
by 個人事業者、SOHO、中小企業専門 ホームページ作成サービス