昔の檜原村物語

 
    太古の檜原村、大昔の檜原村、少しばかりの昔の檜原村 にタイムスリップをしてみませんか。
 
ご案内役: 檜原村出身 岡部駒橘
 
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  言い伝え

檜原村人里字和田地区は、和田一族の落人部落で、七軒組であったと昔から言い伝えられている。屋号が「おめえ」と呼ばれている家は、現在吉野姓を名乗っているが、江戸時代に和田姓から吉野姓に改めたと当主に言い継がれてきている。

それは元郷(元村)の現吉野郵便局長の家が江戸時代の名主であった時、吉野家から婿養子が来た折に吉野姓を貰って「吉野」に改名したのだと言う。


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  七軒組

七軒組とはどの家か定かでないが、古老から聞いた話などから考えて、和田(現吉野)・福田・岡部・嶋田・吉本・杉田・坂本の姓のある家ではないだろうか。

屋号で調べてみると現吉野家(オメエ)、福田家(セエノ神)、岡部家(ナカムラ)、嶋田家(シマアダ)、吉本家(オオシタ)、杉田家(ヒナクボ)、坂本家(ムケエ)の家々が吉野家を囲んでいる。福田家は江戸時代に地区が全焼した程の大火があった時に現在の地に移っていったようである。

 
 

  屋号から

屋号をみると檜原村は各地区に、地形からとったもの、役目がら名付けたもの、方向から付けたものなどと、昔からの古い屋号を残している。七軒組をみると、吉野家は「オメエ」と呼ぶ。檜原村では昔、地区の中心になった家の呼び名である。御前という意味だろうか。

セエノ神」の家は位置が当時と変わっている。昔は別の屋号があったと思われるが言い伝えられていない。今呼んでいる「セエノ神」は福田家の上に〈せえの神〉が祀られているので、自然とそのように呼ぶようになったのだと推測される。一月四日(昔は十四日)に部落民が集まって門松を燃やす風習が今でも残っている。外部からの悪霊を防ぐ神である。いや〈才の神〉である。本当は〈性の神〉だろうと色々に言われている。

ナカムラ」は「オメエ」についで中心に位置している。嶋田家の「シマアダ」は下和田がなまって「シマアダ」となったのだろう。

オオシタ」は御下(オンシタ)が大下になったのではないだろうか。「ヒナクボ」は日向(ヒナタ)久保がなまって「ひなくぼ」と言われるようになったと推測される。高い所の窪目に位置し暖かな所である。「ムケエ」は〈向(ムコ)う〉がなまったものであろう。前述の吉野郵便局長さんの家は〈オムコウ〉と呼ぶ。ムコウと呼ぶ家は対象となる方に家が向いている。人里の「ムケエ」は「オメエ」に対して、局長さんの家は口留番所に対して向いている。御向うとがついている。


 
 

  落人の行き先

さて、この地区は本当に落人部落だろうか。

上野原町史にこんな文が載っている。

『和田合戦は(1213〈健保〉一年)は五月二、三日の両日にわたり鎌倉市中の由比が浜・若宮大路(町大路・大倉)に激戦を展開した。しかし、三浦本家の義村は反乱に動ぜず、千葉、佐々木、足利、武田(五郎信光)、結城、波多野(波多野氏は両方に属した)、長尾、曾我、河村らが北条氏と協力して対抗したので、三日夕刻反乱軍は壊滅した。横山時兼は和田常盛とともに翌四日甲州償原別所に逃れて自害した。亨年六十一歳という。この場所は不明だが、一門の古群(ふるごおり)兄弟が郡内の波加利(大月市初狩)まで逃れて自害していることから考えて、郡内のどこかであろう。一応上野原町棡原付近に仮定しておく(時兼の自害の地は島津本『吾妻鏡』による。他の本に記載がない)。』と償原という所がでてきている。

ほかの所には次のように載っている。

『古群保忠は和田義盛、北条義時と事を以て相模に戦い、保忠等これを援けて利あらず義盛戦死し保忠及び光忠([注]光連の誤植)は義盛の長男常盛と共に郡内にのがれしも、近隣の北条党に攻め寄せられ古郡の館に近づくことを得ず、西に走りて坂東山波加里(今の和狩村)に向ふ。此の辺より西は武田氏の管領にて、また北条党に加勢したるを以て、茲に進退谷(きわ)まり遂に、波加里の東競石郷(中、下両初狩の間)字二木にて自殺す。甥光忠(保忠養子)その他一味埼玉なる児玉方面(今の児玉郡)に落ちのびたりと時に建保二年(1213)癸酉五月なり。』とある。これをみると、三つに分かれて逃亡していることになっている。

要するに和田合戦は鎌倉時代初期にいくつか起こった有力御家人の勢力争いの最も大きいものである。北条氏(義時)は侍所別当として人気のあった和田義盛を滅ぼそうとして、頼家の遺子千手を将軍にしようとして陰謀に加わった和田平太胤長(義盛の甥)を流罪として邸宅を没収した。

義盛の謝罪を無視してのいやがらせであり、この挑発に義盛が乗ってしまったのである。

義盛方には土屋義清、古郡保忠(横山党)渋谷高重、土肥惟平、岡崎実忠、大庭、梶原らが支援をして反乱に立ちあがったが、最大の味方で力のある横山時兼が不在の所であり、時兼が南武・相州の横山党一門や波多野三郎ら「彼是軍兵三千騎」を引き連れて反乱に加わったのは翌三日の早朝になり、遅れたのが義盛方にすると悔やまれることであった。

また、義盛の従兄に当たり行動を共にすると誓った三浦義村が、突然寝がえり北条方についたので義盛らは敗れ、義盛は戦死して反乱軍はそれぞれに落ちのびていったことは前述の通りである。

 
 

  償原別所とは?

さて、上野原の償原に逃れて自害したと伝えられる横山時兼は六十一歳の高齢であった。

時兼は横山庄(現八王子)を所領していたが没収されてしまった。何故、義盛方についたかと言えば、時兼の叔母は義盛の奥方であり、妹は常盛に嫁がしていたのである。一緒に逃れた和田常盛は義盛の長男であり、時兼と常盛は伯父と義弟の関係にあり、常盛は当時四十二歳であった。

自害しと伝えられる償原はどこか。

『吾妻鏡』の記事が終わったのは文永三年丙寅(1266年)で和田合戦から五十年を経過している。時兼らの自害のことは、鎌倉で報告を受けたものが記録してあり、それを参考にして『吾妻鏡』をまとめたと思われる。その報告の時、檜原別所(檜原という別の所)で自害しただろう。と記されたかもしれない。

と書いてあったらどうであろう。

は ヒノキ、カイ、ヒ とも読むが、 になると ショウ、ソウ と読むので、檜原 (ショウ)と読んでしまい記述する時に甲州償(ショウ)原別所と記述したと思われる。

そうすれば檜原という別の所で自害しただろうとも考えられてくる(実は落ちのびたのだが)。

さて、地元の言い伝えの中に、和田部落に落ちのびる前に現在の笹尾根にしばらく住んでいたと伝えられている。そこはバンド沢と今も呼ばれ尾根とその近くに平坦な場所がある。

バンド沢は坂東沢ではないだろうか。

和田氏も横山氏も坂東武者である。その人たちが落ちのびて和田地区に落ち着くまでのしばしの間住んでいたので名付けられたのではないだろうか。坂東とは関東地方の古称で、足利峠の坂から東の方を言っている。奈良時代から一般に使われ、関東と呼ぶ名称は中世以降である。坂東武者は「勇敢な気性を持ち、特別な言葉や風俗を持ち、豊かな土地に住む武士」と京都の方では見ていた。

その他の言い伝えに、「オメエ」の家には代々当主だけに伝えられている言葉がある。『困った時には或る所を掘るとよい』という内容である。代々の当主はどんなに困っても先祖の好意は嬉しく受けとめながら掘ろうとはしてこなかったし、今後も偶然の発掘の機会がなければ掘ろうともしないであろう。

なお檜原村人里という地区は今では都道が広がり車の往来も繁くなったが、鎌倉時代は東の上川乗からは三粁も離れた険阻な急斜面の山に隔てられて、南は笹尾根、西は急峻な山と谷に遮られ、北は浅間尾根から和田地区には近づき難く、落人の隠れ里にはもってこいの所であった。落人がひっそりと、そして時々笹尾根から陣馬を抜けて八王子横山へ、また三浦郡和田地区とひそかに連絡をつけながら暮らしたのであろう、と昔のようすを想像することもできる。人里地区は他地区に比べて武士の落人地区なので板碑が多いのもうなずける訳である。

 参考資料

わだかっせん(和田合戦)

鎌倉時代初期に起こった有力御家人(ごけにん)の勢力争い。

鎌倉幕府内部において、独裁的権力をうち立てようとする北条氏は、幕初以来の有力御家人を滅ぼしていったが、そうした動きの一つとして起こったのが和田氏の乱であり、鎌倉を舞台とした戦乱としては最大のものであった。

和田一族の間に北条氏の野心を快からず思うものが多かったが、建保一年(1213)信濃(しなの)の御家人泉親衡の陰謀に、和田義盛の子義直・義重らが関係していたことから、北条氏は和田氏排撃の好機をつかみ、義盛を非難した。

義盛は憤激して将軍実朝の慰諭をもしりぞけ、幕府と北条氏の邸を襲撃し、一時は鎌倉の要所を占領したが、たのみとした三浦義村の寝返りと北条氏の周到な防御のため、義盛は乱戦の中にたおれ、一族は滅亡した。
(安田元久)

わだよしもり(和田義盛) 1147〜1213

鎌倉初期の有力御家人(ごけにん)の一人。三浦大介義明の孫で、相模(さがみ)国三浦郡和田に住した。父は義宗。

年少の頃から射撃に長じ勇名が高く、治承四年(1180)源頼朝の挙兵にあたり三浦義澄らとともに参加した。頼朝が関東をほぼ支配下に入れ鎌倉を根拠としたのち、平氏の東征軍を富士川に破った直後、義盛はかねてより望んでいた侍所(さむらいどころ)別当に補され、諸将士の進退をつかさどることとなった。

その後、遠江(とおとうみ)に出陣して安田義定をたすけ、ついで源範頼の軍監として源義仲および平氏の追討に当たり、一の谷、壇ノ浦に戦功をたてた。

二代将軍頼家のとき、正治一年(1199)北条政子が将軍の訴訟親裁を止めて十三人の元老昌諸将の合議制をたてたが、彼もその一人となった。

この年十一月、諸将とともに梶原景時の罪状を訴えて、それを失脚させ、また比企氏の陰謀事件にさいしても、北条氏と接近して身の安全をはかり、源実朝の擁立を支援した。

こうして北条氏とならんで強大な勢力を保ったが、北条氏の巧みな誘発に乗ぜられ、ついに建保一年(1213)和田合戦が起り、義盛は一族とともに滅びた。→和田合戦
(安田元久)


(昭和六十一年八月執筆)
 
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