昔の檜原村物語

 
    太古の檜原村、大昔の檜原村、少しばかりの昔の檜原村 にタイムスリップをしてみませんか。
 
ご案内役: 檜原村出身 岡部駒橘
 
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  不思議な石

色鮮やかな紅葉(もみじ)を浮かべて、きれいな水の流れる三頭大滝を眺めながら登っていくと不思議な石に出会った。

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檜原では硬い石 ―― 特に重い石と言われる大きい三頭石が水に流れる岩盤の上にどっしりと乗っているではないか。それもゴツゴツしているのではなく角を削られて形は楕円形をしていて丸々としている。

三頭石は石英閃緑岩と呼ばれる火成岩である。秋川流域の所々で見つかり、石垣・家の台石・漬物石等に使われている。

どうしてこんな高い山に丸々とした三頭石があるのだろう。高い山頂で化石を見つけた程の驚きではないが、何とも不思議な感に捕われた。そこで一つの仮説を立ててみた。

三頭石を見つけた場所は川底の岩盤のような気がする。秋川の源流のもう一つの場所の鞘口峠下の砂地からチョロチョロ湧き出す所と違っている。遠い上流から流れてきている川底のようなので、思いきった発想をしてみた。三頭石は一説によると遠い昔(新世代の第三紀)のある時期に三頭山に貫入してきたのだろう。といわれているが、三頭山付近には閃緑岩の大きな岩盤は見当たらない。

私の仮説は昔その昔の大昔、三頭山は高い山でなく、小菅村の小菅川が南秋川に続いていて流れていたのではないか。そして大菩薩嶺で大量に流れた閃緑岩を流し出していた。

ある時期に三頭山が隆起して川の流れが塞き止められたので、不思議な石はそのまま現在までその位置に留まっているのだろう、というものである。そこで専門家の著書から必要な所を引用抜粋させてもらい考えてみた。

 
 

  檜原村の誕生

御前山

 

今から気の遠くなるような二億年位前、本州造山運動と名付けられている海が山になる地殻の変動で、御前山・雲取山・秩父の山々が海上に浮き出てきた。御前山が !! そう、檜原村の一部分が地球上に誕生したのです。

この地層は四億年も前から海の中に溜まっていましたが、海の地層がしわのようにへし曲がりながら海上に押し出してきたのです。

三頭山や大岳山

 

そして七千五百万年位前に地殻の変動がまた起こって地層が隆起を始め、御岳山や大岳山、月夜見山や三頭山が海から顔を出してきました

この時、九州と大陸は陸つづきになっただろうとも言われ、日高造山運動と呼ばれています。

この地層は一億五千万年位前に溜まったもので、関東地方から九州の方までサンゴ礁が続いていただろうと言われています。

この地層は石灰石が多いので、鳥の巣石灰石と呼び、割ると石油のような匂いがします。 檜原村の障子石・神戸石・栃の戸に石灰石が見えますね。

昭和四十八年、奥多摩有料道路建設中に見学に行った時、監督さんに「工事はやり易いですか」と尋ねたら、「ここに来る前に紀伊半島の道路をやっていたが、同じような土質で崩れ易く、やりにくいですね」と答えていた。

なるほど同じ年代に出来た地層だと、今、理解された。

笹尾根

 

二千五百万年位前になるとグリーンタフ変動という地殻の変動があった。海の洪水が起こり六百米もの高さの海面が上がっただろうと言われる。火山活動も活発になり、九州と大陸はまた海でへだてられた。そして日本の土地は数十粁のかたまりに分かれて崩れ、海に沈む所が出来て、高い山を残して島々が出来た。

静岡 ― 富士川 ― 諏訪 ― 姫川 ― 新潟の糸魚川を結んだ所が、東と西が段違いになるという大きな変動も起こった。

そして、それから長い年月を経ながら陸地が隆起してきた。笹尾根・陣馬山等が浮き出てきた。

五日市では千六百万年も前に数百米もの地区がかたまりとなって落ち込む変動があった。

檜原浅間峠から城山を結ぶ以南は小仏層といって化石少ないといわれます。

小仏層は一億年前位から海中にたまった地層で、この地層と同じものが北海道で見つかるが、北海道ではこの地層からアンモナイトの化石がたくさん見つかっている。もしかしたら、この小仏層にはいる笹尾根・高尾山・陣馬山・上野原あたりの地下深くにアンモナイトが眠っているかもしれない。

 

化石

 

@ 昭和三十六年、昭島市内の八高線の鉄橋の下から、今から約五百万年位前のヒゲクジラ(アキシマクジラ)の化石を田島政人氏が発見した。ホオジロザメ・ヨシキリザメの化石も発見された。その頃、昭島付近は海でした。

A 昭和五十三年、今から三百万年位前に生きていたステゴドン・ボンビフロンス象の化石を五日市町(現あきる野市)網代(あじろ)の建設中のゴミ処理場から小室一夫氏が発見した。

鹿の化石も見つかった。その頃、陸地に生えていたメタセコイヤの化石を五日市河原で見つけた岸精四郎氏は、西秋留(にしあきる)小・一の谷小へ寄贈した。三百万年位前、既に五日市は陸地になっていたと考えられ、当然檜原は陸地として全部姿を見せていたが、今の地形と同じであるかは疑問です。

(編集担当 注:

 ステゴドン・ボンビフロンス象:
 あきる野市五日市郷土館 に化石の説明があります。

 郷土館の場所については あきる野市五日市郷土館 を参考にして下さい。)


山容

 

現在の山の高さは百七十万年前位前から現在に到るまで徐々に、数十粁のかたまりであちこちが隆起して、現在の山容になってきたと言われています。また、古い地層が高い山で、新しい地層が低い山だとは言えないと言われています。

石英閃緑岩は二千五百万年も前に地下深く潜った地層が、地熱や地圧を受けて花崗岩の溶融物となってまた上昇してきて冷えて固まり、山脈となりました。今も大菩薩峠西で切り出されています。塩山市小田原で拾ってきた石と数馬で拾った石は、どちらとも区別しにくい石で、強いて言えば塩山市の方が黒粒(雲母)が大きいかなと思う程度です。

今から百五、六十万年前から長い間、大菩薩嶺から東に流れる小菅川は白沢地区あたりから、現在の三頭山の東を流れ三頭大滝(当時は滝ではない)付近を通り、今の南秋川に流れて東京湾にそそいだと推測してみました。

三頭山は高い山でなかったと仮定したのです。今から百七十万年位前から現在までを地質学では新世代の第四紀といい、この第四紀の時に現在の山容がデキル部分的な隆起があったといっています。

隆起といっても、ほんの少しずつで一年に一ミリメートル隆起したとすると二千年で二米だけです。三頭山が隆起して小菅川がせき止められて小河内の方に流れ出していくのには五十万年前から百万年も月日がたっていたと思われるのです。

小菅川が檜原の方に流れこんでいた頃は、氷河時代があり、大洪水が起こる時があり、多くの水量で石をころがしてきたのでしょう。また、当時の川底は現在よりも二十米も五十米も高い所を流れていたと思われます。

現在の数馬字大平の住居近くや畑を三・四米位掘った所に丸々とした三頭石が出てくるし、人里の稲村の崖の中や上川乗の人家上の沢の中にも三頭石が見つかっています。

現在の川底は長い長い間に削られて低くなってきたと思われるのです。

また、現在の小菅村の白糸の滝付近の河川には三頭石と同じものが沢山見つかります。

先に述べた不思議な石は、三頭山の隆起と共に取り残されて三頭山の変化を眺めていたと想像しただけで不思議な感がします。

檜原の山々は三百万年も前から削られたり隆起したりして、本流が支流の方を侵食しながら蛇行の姿を作り、土砂を下流に運び丘陵や台地を形づくっていったのでしょう。

三頭石の不思議をこのように想像してみました。別のことになりますが、不思議と言えば都の無形文化財になっている式三番叟(さんばそう)のある笹野・小沢地区は川が北に流れている所です。

式三番叟は天下泰平・国土安穏・五穀豊穣の呪術的舞踊です。川の流れと式三番叟、これも不思議な一致だと思います。

 
(昭和六十一年十一月執筆)

(編集担当 注: 笹野は檜原村の南谷、小沢は檜原村の北谷に位置しています。そして、その地区を流れる川はそれぞれの地区で北に流れています。)

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